The Structure of "Can animals cure us? #4

#3の続きです。#5に続きます。
The Structure of "Can animals cure us!?" #1
The Structure of "Can animals cure us!?" #2
The Structure of "Can animals cure us!?" #3
建設的な意見になるとどうしても自分の好みが前面に出るので、
あくまで叩き台のうちの一つを提示してる、くらいの認識でお願いします。


本文に入る前に。
2012年6月10日(日)「まんが・イラスト文化祭2012」会場にて富士昴先生のサイン会があるそうです。


7) キャラ描写の改善案 その2 「共感」
普通の漫画でも...というより、物語全般において、共感は非常に重要な要素のうちの一つでしょう。
少し長いですが引用します。

彼らの質問は、アメリカは政治的に日本で成功して他のアジアの国々では失敗したが、その日本でキリスト教伝道に失敗したのはなぜか、ということである。善良なる古きアメリカ人の彼らにとって、キリスト教アメリカン・デモクラシーは切り離せないはずであった。彼らは私の意見を聞きたいといった。


だからこういう難問にはそう簡単には答え得ない。そこで私は矢野徹氏の「掘り起こし共鳴理論」を極端に要約した形で話した。氏の理論を大分"誤訳"したかもしれない。私は言った。


アメリカは建国わずか二百余年、一方アジアの国はみな古く、その中ではむしろ新しい部類に属する日本でも、自らの文字を創り『竹取物語』『伊勢物語』を記してから千百年近い。いわばアジアの国々はみな古い文化的蓄積を持っている。この蓄積の内容は外国人はもちろん知らないし、本人ですら自覚していない場合がある。そこへキリスト教と民主主義が来る、いや、国によっては占領や軍事援助によって強制的に持ち込まれたし、持ち込まれようともした。


そういった場合、古い文化的蓄積の中からそれと共通するものが「掘り起こされ」、それが外部から来たものと「共鳴」する。この場合、共鳴したものは受容されるが、共鳴しないものは受容されない。従って日本の民主主義といっても、それは共鳴現象だからアメリカと同じとはいえないが、全く違うともいえない。一方キリスト教の方は、共鳴する文化的蓄積が無かったか、宣教師が日本を知らなかったため、共鳴する蓄積を見出し得なかったか、のどちらかであろう。


『日本人とは何か。』 p177-178 山本七平 PHP文庫

これを個人に当てはめられるとすると、文化的蓄積というのは個人の経験、共鳴とは共感となるでしょう。
共感がなければ受容されない、つまり、共感無きところに理解無しって事になります。


共感については#1で少し触れました。

なぜ、このマンガを読んで癒されるか?と言われると怪しいのか。
このマンガはアニマルセラピーに関する漫画なので、当然ながら暗い話が出てきます。
悩みを抱えてる人がアニマルセラピーによって解決されることで漫画が成り立ってるのですから当然です。
つまり、読む人にとってみれば、癒されたいのにも関わらず暗い話で欝にさせられるという
構造的な問題を抱えてるということになります。
(中略)
ここで出てくるのが共感です。
例えば薬物依存症の患者の場合、患者の精神的ケアをするNGO団体なんかでは、
患者に自分の辛い体験を同じ境遇の人たちに話させるということをよくやります。
こうする事によって、「自分だけが悩んでるんじゃないんだ」「仲間がいるんだ」「一緒にがんばろう」という気持ちに
なる...らしいです。
何が言いたいかというと、たとえ暗い話の鬱展開でも、それが共感を喚び起こすものであれば癒しになるといことです。


The Structure of "Can animals cure us!?”#1

このように、この漫画の構造的な問題を解決できる、ほぼ唯一といっていい策が共感です。
この漫画に関しては最も重要な要素と言っても差し支えないでしょう。
ところが、構成を重視するあまり(もしくは、そういうネタしか通らないためか)共感の描写については疎かになってると思います。


7-a) キャラ目線
具体的にいきましょう。
#2の最後で触れたこのシーンです。
『動物がお医者さん!?』 2巻 p90-91 富士昴

老人ホーム編の場合、暗い話で共感を喚び起こすシーンといえばこの画像の左上ということになりますが、
これでも共感できる感受性の高い人もいるでしょうけど、個人的にはそこまで共感できるような演出ではないかなぁと思います。


The Structure of "Can animals cure us!?" #2

この漫画の共感における問題点は、キャラからみた風景...キャラ目線/視点がほとんど無いこと。
だから共感(感情移入)しにくいと、少なくとも私は感じます。
例えば、「高い所に立って怖い」というのを描くとするなら、
高い所に立ってるキャラを下から見上げるアングルではその怖さは表現できません。
高い所に立ってるキャラが見下ろした目線を描いて、はじめてその怖さを表現できます。
つまり、上のシーンだと山上さんの目線で描かないと共感は得られにくいという事になります。


これに加えて重要なのがモノローグ。
ノローグと言っても色々意味がありますが、このブログでは全て「キャラの思考をフキダシ以外で書く」ことを指します。
『動物がお医者さん!?』 サンデーS 2012年6月号 p703 富士昴

読者がそのキャラの思考をなぞるということは、そのキャラの立場になるということ。
そもそも共感とは、その人の立場にたって考えることでもあるのですから、
読者にキャラの立場に立つように仕向けるモノローグは、共感を呼び起こしたいシーンには必須と言っていいでしょう。


但し、このセオリーもあくまで選択肢の一つ。
要はそのシーンがどうすれば一番面白くなるか?を選択してるかどうかです。
キャラ目線で描く短所も存在しますから。


あのシーンでの最大のネックは、山上さんが重度の認知症だという点です。
認知症の人間の視点を描くというのは、なったことが無い人間にとって想像するのは少なくとも容易ではありません。
仮に作者が想像できたとしても、それを読者に伝わるように描くところにまたハードルが存在します。
そういう意味では、このシーンをキャラ目線で描かなかった判断は決して間違ってないとも言えます。
ただ、山上さん以外のカウンセリングを受けたキャラでもキャラ目線で描いたシーンはあまり無いんですよね....
山上さんが認知症だというネックは解決する方法もあります。
実は#3で書いてたんですが。(伏線ですよ伏線)

このシーンだと、一番マッチするのは恐らく内木さんでしょう。
「山上さんの居場所がない」「杖に固執する」という構造は、内木さんとココロを取り巻く環境と相似形です。
つまり、杖を持ったままでもいい状態というのは、内木さんがココロと一緒にいる状態。
改善すべきは山上さんの社会化って事になります。
似たような環境にあった内木さんなら、山上さんの立場が理解できるという事に説得力が出ますし、
内木さんがどういうキャラか?をもう一度印象付けることもできます。


The Structure of "Can animals cure us!?" #3

共感させたいポイントは認知症である事ではなく(そもそも共感しにくいですし)、孤独感なのですから、
山上さん以外のキャラが山上さんに共感し、そのキャラの目線で描くことによって、
「孤立してる人からの視点」を、より読者の共感を得やすい形で描写するという事が可能です。
これもまた「ロールプレイ」の手法のうちの一つです。
さらに言うと、ここに誤解やら情報の有無によって色々シナリオを組み立てていくことも可能ですが、その辺りは割愛します。


何にせよ、「キャラ目線大事」ということです。
このブログが結構な割合でモノローグに関して言及してるのも、こういう理由からです。


ひとつフォローしておきましょうか。
EPISODE:12以前に一度、キャラの視点で上手く描いた演出がありました。
『動物がお医者さん!?』 1巻 p94 富士昴

EPISODE:2の失声症のこどもの話です。
ノローグではありませんが、絵本を読むことによってモノローグと同じ効果を出しています。
まぁ実際の症例や、失声症だからこそ語らなければいけないという理由があるからこうなったのかもしれませんが...


7-b) 抽象化
実はこの点に関しては問題になっていません。

古い文化的蓄積の中からそれと共通するものが「掘り起こされ」、それが外部から来たものと「共鳴」する。この場合、共鳴したものは受容されるが、共鳴しないものは受容されない。従って日本の民主主義といっても、それは共鳴現象だからアメリカと同じとはいえないが、全く違うともいえない。一方キリスト教の方は、共鳴する文化的蓄積が無かったか、宣教師が日本を知らなかったため、共鳴する蓄積を見出し得なかったか、のどちらかであろう。

共感を喚び起こすためには、読者の経験といかに結びつけるかが鍵です。
「私もそう思ったことがある」と読者にいかに感じさせるかです。
ここで必要になってくるのが抽象化です。
『動物がお医者さん!?』 1巻 p147 富士昴

抽象化自体は出来てるんですが、ほとんどが「コミュニケーション不全」なのが若干問題です。
ただ、長くて5〜6巻でしょうから、さほど問題にならないかもしれません。
半分くらいコミュニケーションの問題なのにも関わらず、
「実はコミュニケーションの問題でした」という流れはちょっとどうかと思いますけど...
まぁその前にちゃんとミスリードさせてたりするので、読めてる人はそう多くはないのかもしれませんが。


これが長期連載となると問題がでてきます。抽象化と多様性はアンチシナジーを形成するからです。
わかりやすく言うと「あちらが立てばこちらが立たない」状態。抽象化させるとネタがマンネリになりがちなんですよね。
誰もが共感できるような事というのはそれほど多くないですから。
『神セカ』の駆け魂編が終わったのも、「ココロのスキマ」を誰にでも共感できるような内容にしていたので、
ネタが無くなってきたから、というのもあるのかもしれません。


たぶん次で最後かな? #6まで続きます。
続きは The Structure of "Can animals cure us? #5
恐らく「萌え」について書くと思います。