劇場版 ハヤテのごとく! HEAVEN IS A PLACE ON EARTH

ネギま!』に関してはほぼ興味ない(アンチですらない)ですが、『ハヤテ』に関してはがっつりファンな
人の批評なので、そういう人が書いた文章だという事を念頭に置いてください。


まぁぶっちゃけ凄かったです。

ハヤテのごとく!週刊少年サンデー2011年41号 p110 畑健二郎

どこで差が付いたのか上手く説明できればいいんですが...まぁ『ネギま!』読んでない人なので話半分で。


『ハヤテ』で悪かったと思う点は、作画のクオリティが一部で落ちてた事だけですかね。
ネギま!』ではプロ視聴者の方々に言わせると多少不滿が出てるらしいですが、個人的には気になりませんでした。
少なくとも、どのシーンをキャプチャーしても画像崩壊してるような所は無かったと思います。
『ハヤテ』ではキービジュアルが微妙だったと一部で話題になりましたが、アレと同じくらいの作画が散見されてました。
ただし、そういうシーンは前半に多かったせいか、観てるうちに気にならなくなりましたが。


とまぁ、悪かった点がストーリーに関係ないことを見ても分かるように、内容は素晴らしかったです。


a) コンセプトが素晴らしい。
どういうコンセプトだったのかは畑先生が某所で、
小森監督が『スカイプとかUSTとか』で話したところによると


1) とりあえず、1話目をもう一回やろう
2) 「何度見ても面白い」を意識して作った
3) ハヤテとナギの、執事とお嬢様という関係を描こう(『スカイプとかUSTとか』)


とのことでした。
本当はがっつり引用したい所ですが、面倒な事になるのもアレなので。


特に1)「とりあえず、1話目をもう一回やろう」はパターンの一つとは言え、素晴らしいですね。
ネギま!』のコンセプトのうち「本編とは違ったエンディングを」自体は良いコンセプトであるのですが、
ネギま!』のファンのみを対象にしてる点で、コラボ企画的には若干問題はあります。
この辺り、当初は2時間で『ネギま!』単独での劇場版を予定してたらしいので致し方ない点はあるのですが。


『ハヤテ』もこの方法を採ることはできますが、「新アニメ制作決定」らしいのであまり意味はありません。
それに代わるコンセプトが 1) の 「1話目をもう一回やろう」
「劇場版を集大成に」という狙い自体は『ネギま!』と共通してます。しかしその先が違う。
換言すれば『ネギま!』はファン(声優ファン含む?)のみを対象にしてるので発展性がなく、
『ハヤテ』は一見様をも対象にしてるので発展性がある、と言った所でしょうか。
『ハヤテ』を知らない、『ネギま!』を見に来たファンを取り込める構造になってるんですよね。
(そういう人がいるのかどうか知りませんが...かなりファン層被ってますし。)
本当に一見様にも優しい作りになってたか? は正直『ハヤテ』の事を知ってる私にとっては分かりませんけれども。


2)「何度見ても面白い」を意識して作った のコンセプトも素晴らしいです。
ネギま!』『ハヤテ』のファンはそれなりに存在してるとは言え、映画がヒットするには足らないと個人的には思います。
その中でどう売上を向上させるか。
「一度見た人にもう一度見たいと思わせる」というのは映画の売上ばかりかBDの売上にも影響するでしょうし、
作品の質を向上させることにも繋がる非常に良いコンセプトではないかと。
どうやってこのコンセプトを作品に生かしたか?に関しては想像するしかありませんが、後で触れます。


3) ハヤテとナギの、執事とお嬢様という関係を描こう のコンセプトは私的に解釈すれば、
「『ハヤテ』の基本にたち帰ろう」ということでしょうか。
これは小森監督の発言ですが、 1)「とりあえず、1話目をもう一回やろう」の違った角度からの解釈と見ていいでしょう。


ちなみに『ネギま!』の記事で書いた 3)「キャラ日常と見せ場は作ろう」は『ハヤテ』にもありはします。
ただ、『ハヤテ』の場合は「一見様にもどんなキャラかを分かるようにするため」と、あくまで一見様対応である点が違います。
例えばおまけの99巻にナギ、西沢さん、千秋のサービスシーン(風呂)とルカがナギと会話してるシーンがあります。
これは私の想像ですが、本来なら映画のワンシーンだったけれども、尺の関係で入らなかったんでしょう。
サービスシーンが最優先ではなかった(コンセプトとまでは行かなかった)証拠になるのではと。


b) キャラ表現が素晴らしい
コンセプトに関してはこのくらいにして、演出について。
基本的にキャラ漫画である『ハヤテ』にとって、キャラをどう表現するかという演出は肝にあたる訳ですが、
その辺りは完璧でした。


ここに『ハヤテ』が失敗しなかった最大の原因があると思います。
但し、『ネギま!』がこれをやらなかったから失敗したという訳ではないです。
赤松先生は確かtwitterで原作者として関わらない方が良いだろうと判断したとつぶやいてた、ような気がします。
(ソース失念)
基本的にはこの考え方は正しいでしょう。「プロに任せる」選択が最善手の場合が多いです。
そしてそれは『ネギま!』にも当てはまるだろうと思います。

赤松先生「『ネギま!』の女性キャラは自分じゃなく、作りこまれたキャラだから成長しない。死んでる。
でも『ハヤテのごとく!』の女性キャラは、みんな畑君の分身だからいろんな表情を見せる。成長する」
第9回 コミナタ漫研〜マンガ家に聞く、同業者の気になる仕事

赤松先生はこのUST放送で「血が通ってる/通ってない」という発言をしてました。
ネギま!』の記事でも書きましたが、若木先生の言葉を借りると「記号」と「キャラ」の関係です。
『ハヤテ』の場合は、キャラに血が通ってるため作者以外の人が作ると違和感になる。
ネギま!』の場合は、キャラに血が通ってないため作者以外の人が作っても違和感は生じない
恐らく、劇場版『ネギま!』に関して「俺の嫁はあんなのじゃねー」的な批判は出てないんじゃないかな、と思います。
(調べてませんが)


『ハヤテ』においてどういうシーンが「血が通ってる」描写なのか分かってるかどうかは怪しいですが、
少なくとも『ハヤテ』にはキャラを表現するためのパターンがあることは事実だと思います。


ではどうやって血を通わせるか。
そのパターンは以前The Structure of "Hayate the combat butler"で書いたので、
具体的な描写について。当然ながらネタバレありです。


『ハヤテ』でよくある演出の一つとして、「状況を揃える」ことによってロールプレイするというのあります。
同じ状況で違った(または同じ)行動をさせることによって、キャラの違い(または共通性)をより明確に表現できます。
例えば原作のミコノスの迷宮に入るシーン。
ハヤテのごとく!』 20巻 p138-139 畑健二郎

ハヤテのごとく!』 20巻 p145

ナギと西沢さんのカップリングではとりまボタンを押すという選択をして罠に引っかかります。
ハヤテとヒナギクカップリングでは下準備をしてから進む、という違った行動をします。
そしてこの間に、西沢さんは浅い水で溺れかけ、ナギは暗闇になって怖がるといった描写が続きます。
逆に、上の画像はナギと西沢さんはとりまボタンを押すという、同じ状況で全く同じ対応をさせるというシーンでもあります。


映画では、例えば冒頭のナギの手をハヤテが握るというシーンを後でヒナギクともしてますが、
特に面白いなーと思ったのが、ナギが拉致されてマリアがお嬢様役になるシーン。
(惜しむらくは、一人欠けても何も無かったかのようなシーンが何度か続いていけば、より恐怖感が増したとは思いますが...
まぁ尺の関係もありますし、目的が執事を辞めさせることですから何か理由を付ける必要ありますし、無理でしょうなぁ。)
BBQ作ったりスイカ切ってるシーンは一見様にとってはマリアがどういうキャラか?が伝わりますし、
ファンにとってはマリアのツインテール、お嬢様してる姿は「普段とは違う」という意味での違和感、
ギャップがあることによる面白さに繋がってるんですよね。


何が言いたいかというと、『ネギま!』は読んでないので分かりませんが、
少なくとも『ハヤテ』には「どうやったらキャラに血を通わせることができるか?」の方法が確立してるって事ですね。
いかにキャラの幅を広げるか。
これは赤松先生が言うような、「天然」では出来ない演出だと思います。
まぁ、どんな漫画でもやってる事ではあるのですが、明らかに頻度が違います。
ギャグ寄りのラブコメだからこそそこまで出来るって面はあるでしょうけど。


各キャラの登場シーンも『ネギま!』との違いが出ています。こちらは良し悪しの問題ではないですが。
ネギま!』の場合は尺の半分くらい使ってることもあり、喜怒哀楽(バトルも)をバランスよく配分した印象ですが、
『ハヤテ』の場合は後半シリアスになるのもあり、キャラを紹介しながら、ほぼボケかツッコミで入ってます。
そんなシーンにさえ伏線になるiPhoneを初めの方から出してる辺りは、上手いとまでは思いませんが、
丁寧に作ってるなーという印象を受けます。
ネギま!』が唐突にピンチになっただけに尚更です。


c) 何度見ても面白い?
ある意味この映画の肝でもある「何度見ても面白い」作品作りとは何か?って事ですが...
ぶっちゃけ分かりません


一回目と二回目で印象が変わる作品、というのは確かに何度見ても面白くなるでしょう。
では、どうすれば二回目で印象が変わるのか。
ここら辺りは想像するしかないのですが、
The Structure of "Hayate the combat butler"でも書いた「情報に差を付ける」はあるでしょう。
但し、対象が違います。


例えば、今回のヒロインである謎の女性。
トイレに行けなくて困ってるナギと一緒にハヤテが外に出るシーンの後、ハヤテはナギを置き去りにして彼女を追いかけていきますが、
なぜそこまでして追いかけるのか?はその時には分かりません。
まぁ要するに伏線なんですが...
ここで重要なのは、何故追いかけていったかがほとんど説明されてない点です。

ロクロウ:分からないって事は面白い事なのかもしんない。
      パッと観て一回で分かるようなものなんて大して面白くないんだと思うんだよね。
                         (中略)
後藤  :畑健二郎先生が言ってて、「そうなんや」と思ったのがあるんですけど。
      『ハウルの動く城』(のソフィー)って、お婆ちゃんになっちゃうじゃないですか。
      でもあれは、お婆ちゃんになっちゃう魔法を掛けられてるんじゃないんだと。
      あれは、「心の年齢になってしまう魔法」が掛けられているらしいんですよ。
ロクロウ:ほう?
後藤  :それに気づくと、一気に面白くなる。
ロクロウ:おー。本当だ。
後藤  :やべーでしょ。
ロクロウ:すげー。やるな畑健二郎
後藤  :いや、畑健二郎先生考案かどうかは分かりませんよ。でも言ってたんですよ。
      で、まぁ僕はそれを聞いて、まだ観てないんですけどもw
ロクロウ:でも今ハッとしましたよ。確かにぐるぐるぐるぐる変わるんですよソフィーの顔って。
      ちょっとキュンとしたりすると若くなったり、キュンとした気持ちを抑えると、また老婆に戻ったり。
      何となく観ていると感じとしては分かるんだけど、そうやって明確に理由付けされると分り易いね。
後藤  :でしょ。それ言われると観たくなるし、(作品の中では)言わなかったんでしょうね。
      でもそれは、言っちゃったら面白くなくなっちゃう。気づいたら…
      だから二度目三度目観た人がハッとその事に気づいたら、面白かったのかもしれない。
ロクロウ:そこがだから『(借りぐらしの)アリエッティ』には無いんですよ。
後藤  :実はあるかもしんない。あれは心の年齢の大きさの…w
ロクロウ:全然アリエッティ大きくなったり小さくなったりしないからねw
       ソレだったら面白いねぇ。「あれちょっと今微妙に大きかったんじゃねーかな」
『ロクロウポッドキャスト』第1夜 9:27〜11:55

『ハヤテ』はそこまで(いい意味で)不親切ではありませんが、彼女がどういう人なのかというセリフはちょろっとあるだけ。
私はハヤテがナギを置き去りにしたシーンで「何でいきなり追っかけんねん。ナギを放っとくなよw」
と突っ込んでたので気づきましたが、そうは考えてなかった素直な方々は二度目観てハッと思うシーンなのかもしれません。
ただ、ここに引用した話、畑先生は自分が喋ったことをすっかり忘れてたみたいなので、
ハウル』を参考にしたって訳じゃなさそうですがw


とは言え、この線で考えていても不思議ではないと思います。
以前書いたThe Structure of "Hayate the combat butler"
4) ミスディレクション 5) ミスアンダースタンドの項参照で。
つまり

カップリングを変えることによって情報に差をつけることが出来るからです。
例えば上の画像の台詞はマリアさんには誤解が解けましたが、ナギには誤解されたままです。
情報に差が出るということは、対応にも差が出るということになります。

この情報に差を付ける対象を、キャラから観客に変更したって事です。


もう一つ、印象が変わりうる仕掛けがあります。こちらも「情報に差をつける」ではあります。
原作に今週初登場したカユラです。まぁ今のところは登場しただけなので何も変わりませんが。
何故彼女が仮面を被ってるのか?ってのはありますが、これは上にも述べた謎の部分。
そうではなく、原作が進んでいって彼女のキャラがさらに詳しく分かった後で、
BDなりでこの作品を観たらまた印象が変わる可能性があります。まぁ広く解釈すれば謎の部分ではあるのですが。


他に印象が変わる仕組みがあるかは分かりませんが、何度観ても面白い仕組みはもう一つあります。
これも『ハヤテ』に限った事ではありませんが、声優さんの演技。
例えば、釘宮さんの演技は凄いと思いましたね。
特に絵があまり動かず、長台詞のシーンは彼女の演技一つで間を持たせた感があって素晴らしかったです。
どのシーンかはっきりとは覚えてませんが、確かカユラがひまわりを愛でた後くらいだったような。
ある程度尺を与えられてるからこそ、演技が際立ってるんですよね。まぁ苦肉の策ではあるんですが。


何にせよ、映画が素晴らしい出来だった最大の原因は「畑先生頑張った」に尽きますが、
「とりあえず記号の違うヒロインを一杯出す」
「キャラを割と干す」(オミットはほとんどしないが、焼畑農場と揶揄されるように人気がないと使われなくなる)
「いかに記号以上に発展させるか」
というう原作自体の構造がある以上、畑先生が「私自ら出る」と言わなければ成功しなかったと言えるでしょう。
もちろん、小森監督を始め、アニメスタッフが超頑張ったってもありますが。


新作アニメは恐らく3期でしょうが(情報持ってる訳ではありません)、
これも畑先生が関わらないとダメな感じになるかもしれません。
恐らくマングローブでしょうし、『神セカ』を観てもかなり作者の意向を極めて忠実に再現してる感があるので、
ファンからは支持される作品は出てくるんじゃないでしょうか。
残念ながら、それが売上に繋がるか...と言われれば怪しいですが。