若木民喜interview 現代視覚文化研究

現代視覚文化研究 3 (三才ムック VOL. 235)

現代視覚文化研究 3 (三才ムック VOL. 235)

という事でインタビュー感想をば。貸してくれたこうふうかむさ。
p76-81

聞き手はかーずSPさん。こういう所でも仕事してるのか...昔flash作ってた時には何度も紹介してもらいましたね。
個人的に引っかかったところをいくつか、といいたいところだが全文引用に近い状態になっちゃったな。

好きな要素というのは、「ギャルゲ」だったのでしょうか?
「ギャルゲ」という設定は後付けなんですよ。コンセプトはぶっちゃけて言ってしまうと、”目的のある『サラダデイズ』”です。『BoysBe』なども、女の子と仲良くなって話が完結すると主人公が変わったりするでしょう。でも自分は、一話完結のラブコメでありながら、同じ主人公がそれを繰り返していくこと自体に目的があるという、メタな仕組みにしようと思ったんです。
そうすると、毎回毎回違う恋愛をしていって、なおかつ後腐れがないようにしないといけない。しかもスピード感を出すためには、主人公は物語に積極的に参加しないといけない。積極的にラブコメに参加しながらもそれを享受しない。ラブコメの旨味を同時に享受できない主人公ということなんですね。
ここまでは理論で考えつくことです。その中身を入れるときに、たまたま僕がギャルゲを好きだったというだけの話なんですよ。

まぁ『サラダデイズ』とのコンセプトの違いが目的のあるなしだけ、だとは思えないがw 似ているのは確かだけど。
というか個人的には『サラダデイズ』も『BoysBe』も嫌いでほとんど読んでないからはっきりとは分からないが。
繰り返すこと自体に目的がある=駆け魂を出す
後腐れがないように=記憶を消去
ブコメに参加しながらもそれを享受しない=2Dの世界に帰る
なるほどねぇ。

−−単行本の表紙が桂馬だと知ったときは驚きました。見栄えのする可愛いヒロインではなく、男の子が表紙なのはなぜですか?
担当さん
 意図としては、差別化をしたかったんです。サンデーには『ハヤテのごとく!』がありますし、世の中に可愛いヒロインの漫画はいっぱいある。その中で、『神のみ』が他の漫画と違う点といえば主人公なんです。だから第1巻では桂馬を押し出してみよう、と。

なんだ、てっきり腐女子対応だと思ってたぜ。
女性は可愛いヒロインの表紙だと買いにくいかどうか分からないが。
まぁ男の子が表紙でもモノによるだろうが。

↑なんて羞恥プレイものだしな。

−−第6話『神以上、人間未満』などは、担当さんが「これは危険な回ですね」とおっしゃったようですが。
インターミッションの回は、いつもアンケートはどうなんだろうって感じはしますが、これがないと話がリセットされませんからね。僕は、桂馬をまともな人間だとか、本当に神様かもしれないとか、そんなふうに勘違いしてもらいたくないんです。
「コイツは頭おかしい人間なんだよ。単なる気持ち悪いやつなんだよ」っていうのを忘れてほしくない(笑)。
前に『電車男』ってありましたけど、オタクが世の中に許してもらう存在として描かれていたのが、ちょっと違うなって思っているんです。なんでオタク趣味を泣きながら告白しなきゃ駄目なのか、いつまでオタクは許してもらう立場なのかと。

この点を押さえてるあたりは素晴らしい。
単にコミカルを演出するために自分の性格から切り売りしただけ、だと思ってましたが。
インターミッション回を抜いてしまうと、単に「高スペック(才能がある)の人間がブイブイいわす」だけの漫画になってしまいます。
腐女子には影響ないでしょうが、モテない人間からは顰蹙を買うだけです。
少女漫画でも王女が主人公の設定よりも、ごく普通の少女が王子に見初められるといった設定のほうが成立し易いのと同様、
主人公が嫉妬される立場でないほうが受け入れられやすいはずです。


電車男』の見方は予想通り。
読んでない状態だったとは言え記事が出た後に書いたので、読みが当たったと主張できないのが辛いですが。
本田透先生も『電車男』に対して同じ疑問を呈しています。

電波男 (講談社文庫)

電波男 (講談社文庫)

 「電車男」が真実の話なのか、捏造なのかはどうでもいい。俺が問題にしたいのは、「脱オタ=恋愛=幸福」という反オタクムーブメントがメディアで展開されていることそのものなのだ。
p204
 オタクと恋愛資本主義とは、絶対に相容れない。いわば、水と油、陰と陽、北斗と南斗。両者はまったく別の世界であり、同じ空間での共存共栄は不可能だ。だから心優しいオタクは秋葉原という聖地を作り、大人しく平和に生きていく道を選んだのだ。
 にも関わらず、恋愛資本主義は、その秋葉原までをも奪い取ろうとしているのだ。「電車男」というオルグ文章において。
(中略)
 だが、エルメスをオタクの世界に引きずり込んでこそ、オタクとしての勝利なのであり、今までのオタクとしての人生を肯定することができるのだ。エルメスティーカップなど叩き割り、『月詠』のマグカップでお茶会を開催してこそ、オタクのアベック、オタク同士のカップル!
 なぜ電車男は、エルメスをオタクにしようとしないのか? 俺だったら、絶対にコスプレさせるYO! まずはメイドさんのコスをさせて、部屋をお掃除してもらうYO! オタクたるもの、みんな本当はそうしたいはずだ! それでこそ、二次元の妄想を三次元に逆輸入してこそ、二次元の勝利であり、オタクとしての幸福なのではないのか。
p211-212

『神セカ』でも同様の表現がなされています。
神のみぞ知るセカイ』4巻p123

ここでは本田先生はオタにオルグせよと書いてますが、実際には桂馬のように2Dの世界に引き篭もってしまいます。
個人的な理想を述べると、オタがオルグされる場合も、オタにオルグする場合もあっていいとは思いますが、共存共栄の道があるはずだと思います。


マイナーなカテゴリーが成立した時、社会の反応はまず無視、次に排除、さらには包摂(形式的包摂)、最後には容認(実質的包摂)という形を取ります。
無視とは、そのカテゴリーが存在しないかのように振舞うこと。
排除とは、そのカテゴリーに対してバッシングすること。
包摂とは、そのカテゴリーからの脱出を推奨すること。
容認とは、そのカテゴリー自体を包摂すること。


「包摂」までの過程は本田透先生のこの本にも述べられています。

今や国民的スポーツでもある野球でさえ、初めは無視され、次に排除といった段階を踏んでいます。
早慶戦で乱闘が頻発するように、野球は健全な青少年育成を阻む」といった記事が朝日新聞に載ったこともありますし。
オタクの世界も、まずは無視、次に排除(宮崎勤事件)、さらには包摂(電車男)という段階を踏んでいるので、次に来るのは容認…
オタクであろうがなかろうが関係ないという時代がきっと来るはずです。
私は、『神のみぞ知るセカイ』が容認の段階へと進むきっかけになりうる作品だと(勝手に)思ってます。
その為にもドラマ化を希望。 自分自身は見ないかもしれませんが。

−−ヒロインたちは、どのように作られているんですか?
(中略)
世の中の捉えられ方で言うと、記号が強いほうが分かりやすいんでしょうね。昔はキャラクターに萌えていたのが、最近だと属性萌えに趣向が移ってきていますし。
 でも、女の子の属性はこの10年くらい完全に飽和状態で、「お兄ちゃん」「お兄様」「兄貴」っていう呼び方くらいでしか差別化できなくなっています。「そういうのはもう終わらせましょう」という気持ちはありますね。属性からキャラ萌えに行こうという意識を持ってやって居ます。
 だから僕が属性萌えをやる時は、いっぺんキャラ萌えに還元して、そこから属性萌えに戻っていく感じで作っています。栞はまさにそういう方法ですね。「図書館少女」とか「文芸少女」っていうのはもともとどういう魅力があったのか。僕にとってそれは、表に出ている部分と内に秘めている部分のギャップなんです。「栞はメガネをかけていた方が良かった」という人もいますけど、それこそ属性・記号でしかないと思います。

リアルの世界の話をすると、属性・記号萌えだと交換可能なのが問題なんですね。
例えば貧乳好きな人がそういう人とお付き合いするとして、貧乳にだけ萌えているのならば浮気もするでしょうし仲が悪くなると別れやすいでしょう。
その人の良い面、悪い面を含めて好きになる、もしくはその人の萌え要素を「見出す」…漫画でいうところのそキャラ萌えすることが大切です。
神のみぞ知るセカイ』1巻p80

その絆を育むのが「そしてMEMORY二人の思い出」。
これによってお互いが交換不可能な存在になってこそ安定した関係を築くことができるのだと思うのです。
漫画においても同様。
攻略キャラも属性・記号から入ってキャラ萌えに移行するような…
例えば美生編だと、ツンデレという記号から入り、キャラ特有の背景を描くといった演出をしています。
さらに、記憶を失っても何か絆のようなものが残るという設定にしています。
ましてや桂馬は記憶を無くさないので、LCとの思い出(一応ハクアも)は蓄積されていきます。
#42で『ガチ☆ボーイ』のようにメモを壁面に貼り付けてるシーンは、この思い出の蓄積をヴィジュアル化した演出でした。
あの映画も、記憶が無くなってもアマレスをしていることは身体が覚えている、といった演出でしたねそういや。

ガチ☆ボーイ【スタンダード・エディション】 [DVD]

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−−無人島に男と女が1対1のゲームなどもありますよね。
 僕は、無人島みたいな閉鎖空間ってあまり好きじゃないんです。ギャルゲではだんだん密室化が進んでいて、兄弟が家から一歩も出ないゲームとかもありますけど「何の意味があるんだろう」って思います。やっぱり、社会性や肩書きは無視できません。クラスメイトとの人間関係とかステイタスはとても大事なので、女の子が社会の中にいることは、ゲームでは絶対必要だと思います。

ここら辺が本田先生とは違うところ。
社会とは隔絶した世界で自由に生きる権利を主張するのとは違い、あくまで社会の中でどう生きるかという視点があるように思えます。
以前この漫画は「ギャルゲーマーが現実の女性にカウンセリングするのを通じて、現実復帰へのリハビリをする漫画。」だと書きましたが、
この記事からもあながち間違えではないのかな?と思いますね。