The Structure of "The World God Only Knows" #2

ということで、先延ばしにしてた『神のみぞ知るセカイ』の構造について付いて来れない人がいるくらい長々と語るぜ、その2です。
個人的にはこの漫画のコンセプトは
ギャルゲーマーが女性にカウンセリングするのを通じて現実へのリハビリをする漫画』
だと述べましたが、最後の「現実へのリハビリ」について。
前回を読んでない方は、まずThe Structure of "The World God Only Knows" #1を先にお読みください。


以前の予告では神セカの特色と世界設定の整理について書くと述べましたが、
その辺りはまだ決めてません。
特色は#1、#2に内包されてますし、世界設定に関してはもうさんが書くかもしれないので今のところ様子見。
#3として個人的な要望を書くかもしれません。


3)現実へのリハビリ


a-1)ラブコメの起源
神のみぞ知るセカイ』はラブコメです。
ブコメはギャグ漫画がメインだったサンデーが、スポ根路線などでマガジン・ジャンプにシェアを奪われた際に、
その対抗策としてギャグ漫画にそれ以外の要素を絡めたことにより生まれました。
正確に言うとラブコメはそれ以前に少女マンガには存在してたりとか、同じ時期にマガジンで『翔んだカップル』が連載されたりしましたが。
とにかく、ラブコメはその誕生からして読者のニーズが多様化したことを受けて生まれたジャンルだと言えます。


サンデーにおいてラブコメの起源は『うる星やつら』です。

ちなみに『うる星やつら』はハーレム系漫画の起源とも言える作品です(wikiでは『天地無用』が起源になっとりますが)。
後でも述べますが、ハーレム系もまたキャラのニーズが多様化したことに対応した結果です。
高橋留美子先生すげぇって話ですわ。


a-2)ラブコメの基本
基本的なラブコメ漫画において、主人公は最初ヒロインなるキャラと付き合ってません。
例外は挙げればキリがないほどありますが、基本的に主人公がヒロインに片思いな設定なのには理由があります。
読者の感情移入の問題です。
異性と付き合ったことがない人にとって、ヒロインと付き合っている状態は感情移入を阻害します。
特に異性と付き合ってない人に夢を見せるのがラブコメの目的ですから、この設定は何らかの理由がない限り外せません。
そして付き合ってる人にとっても、付き合ってない時期が無い人はいないので、この設定は感情移入を阻害しません。
言い換えるならば「好きな人はいるけど付き合ってない」という着せ替え型の主人公です。


よって、
「好きな人がいる」状態から「付き合う」状態へのベクトルいかに引っ張るかがラブコメの基本路線となります。
彼女に告白し、OKが出たときは漫画のゴールです。
『タッチ』 26巻 p160 あだち充

もちろん例外もありますし、少女漫画では特に付き合ってる最中を描くものが多いように思います。
この辺りはジェンダーの違いですね。


※追記
目的の達成を重視する男性と、コミュニケーションを優先する女性の違い、ってことです。


a-3)ベクトルの維持・達成感の調達
この「好きな人がいる」→「付き合う」のベクトルが「付き合う」状態へと辿り着かないよう抑制する強力な武器が2つあります。
優柔不断と朴念仁です。
例えばこのように迫られても優柔不断なり朴念仁ではぐらかすのがラブコメの基本です。
「それは君だよ付き合おう」といって付き合ったら終わりですから。
銀塩少年』 #2 p9 後藤隼平

なので、ラブコメの主人公は基本的には引っ込み思案です。
ただ、それだけではベクトルを維持したことになりません。関係が進展してないのは単なる点で、ベクトルではありません。
ちなみに『銀塩少年』では「このままだとヒロインが違う人と付き合ってしまう」未来が見えるなどで主人公を後押しするという
中々上手い設定を入れてます。
とにかく、何らかの手段で以前よりは付き合う方向へと進んでいるということを示さなければベクトルになりません。


これが王道バトルやスポーツものなら話は簡単です。
「強くなる」のが目的ならば、敵と闘って勝利すれば達成感を得られますし、より強い敵を出せば新たな目的が生まれます。
しかしラブコメではこの手法はそのまま使えません。
ヒロインと付き合った時点でゴールですから。『タッチ』の南と付き合った後別のヒロインと付き合う展開には無理があります。
なので、ラブコメでは基本的に二つのパターンで達成感を得られるようにします。


b-1)ステップの細分化
一つはステップ(段階)を増やすことです。
バトル漫画のように新たにハードルを増やせないのなら、その手前でステップを増やす。
例えば相手に名前を覚えてもらう、挨拶するような間柄に、手を繋げる、一緒にお茶をする、等で関係が進展したという達成感を表現します。
銀塩少年』 #4 p30

ネックはステップをどれだけ細分化できるかです。
王道バトル漫画だとインフレさせれば引き伸ばせますが、ラブコメにはそれができません。

ちなみに、『銀塩少年』はクラブサンデーで読めます。無料です
PCはコチラから。1話と最新の2話が読めます。
携帯はコチラから。1話のみ無料です(パケホーダイでなければ別途通信料は発生します。)が、料金を払えばバックナンバー全てを読むことができます。
単行本は現在1巻が発売中です。

銀塩少年 1 (少年サンデーコミックス)

銀塩少年 1 (少年サンデーコミックス)

後藤隼平先生は『ハヤテのごとく!』『お坊サンバ』の元アシスタントさんでもあります。

以上宣伝でした。


b-2)並列方式(ハーレム系)
もう一つはキャラを増やすことです。
ベクトルが向かってるキャラ(フラグが立ってるキャラ)を増やせばいくらでも引き伸ばせます。
ゴールに辿り着かなければいいんですから、各キャラとの関係が進展した様子を描けばいいのです。
ハーレム系漫画は恋愛を同時進行させてるので、恋愛を並列で描く方法と言えるでしょう。
ハヤテのごとく!』 9巻 p34 畑健二郎

ただし、ハーレム系漫画にも欠点があります。
ハヤテのごとく!』のファン層が男性9:女性1なように、女性からの支持が得られにくいことです。
女性は主に女性キャラに感情移入すると思われますが、そうなると相手がものすごい浮気してるって事になりますし。
絶対可憐チルドレン』のように、主人公のライバルとなる男性を出して逆ハーレムも組み込むという方法もありますけれど。


このように欠点もあるハーレム系ですが、キャラが増えればそれだけ読者の多様なニーズにも応えることができます。
そもそもラブコメは多様性の時代に適応するために出来たジャンルですから、ハーレム系が増えるのは必然と言えるかもしれません。
『じゃじゃ馬グルーミンup!』 4巻 p63 ゆうきまさみ

フラグが立ってたのが次女、3女の二人なのでハーレム系とは言いにくいですが、『じゃじゃ馬グルーミングup!』の4姉妹は、
それぞれ性格が違うという点で多様化の流れに棹さす構成でありつつ、4人とも両親の性格を違った形で引き継いでいるのが表現されているという
実によく練りこまれたキャラクターでした。
単に記号化されたキャラクター(ツンデレ等)を並べる漫画とはえらい違いです。


b-3)直列方式
『神セカ』が画期的なのは、キャラを増やして並列ハーレム展開(だけ)で描いたのではなく、直列をメインで描いた点です。
直列で描いた漫画が全くない訳ではありません。
例えば『BOYS BE』『サラダデイズ』といった作品は短編が連続した構成で、直列でした。
新規参入を促し易いという意味でもこれ自体は漫画の特色ではあるのですが、発展性が無いのとマンネリがネックでした。
さらに、キャラについたファンをオミット(排除)するのもネックでした。人気的にはこちらのほうがよりクリティカル(決定的)です。
また、直列で描きつつ短編の連続ではない漫画も無いことは無いです。
青年誌ですが『春よ来い』はそれに当たります。

春よ、来い (Volume1) (アッパーズKC (39))

春よ、来い (Volume1) (アッパーズKC (39))

少年誌ではこれと同じパターンは厳しいでしょう。
何せ恋人と別れる鬱展開というハードランディングを読者に耐えてもらう必要がありますから。
追記:この記事の後にマガジンで連載された『GE』はモロに『春よ来い』ですな...
   キャラを捨てない点は別ですが。(『春よ来い』は一人だけ回収されますけど)


c-1)直列方式の新機軸
『神セカ』は直列に恋愛を描きつつ、主人公が変わらないことで発展性のある漫画にすることができます。
ネックとなる鬱展開は記憶をリセットすることで回避。
『神セカ』が画期的たりえたのは、この記憶をリセットというSF的設定を直列型に組み込んだところにあると言えるでしょう。

コンセプトはぶっちゃけて言ってしまうと”目的のある『サラダデイズ』”です。『BoysBe』なども、女の子と仲良くなって主人公が完結すると主人公が変わったりするでしょう。でも自分は、一話完結のラブコメでありながら、同じ主人公がそれを繰り返していくこと自体に目的があるという、メタな仕組みにしようと思ったんです。
現代視覚文化研究 Vol.3 p77

キャラを攻略しても漫画が終わらないので、ステップを細分化させずに達成感も得られます。
また、攻略してる段階では主人公とヒロインが1対1の関係にあるので、ハーレム系では欠点となっていた女性からの支持も得られるようになります。
キャラ自体は増やしているのでハーレム系のメリットである多様性対応もなされています。
王道バトル漫画のように、攻略が終わったらまた別のキャラへの攻略へと進めるので、ステップを細分化する必要もありません。
主人公を引っ込み思案にするという制約からも解放されます。
このようにメリットが多い『神セカ』の直列方式ですが、問題点もあります。


c-2)並列方式の併用
一つ目の問題点は直列方式の宿命ですが、キャラが使い捨てになってる点です。
これまでの直列方式とは違い、主人公が変わらないので感情移入を維持し易くなり、物語に発展性を持たせることは出来るようになりましたが、
ヒロインに付いたファンをオミットするという構造には変わりありません。
この点については別のブログではありますが、今年の1月の段階から懸念を表明していました。
それを改善すべく、2B Pencils編(ちひろバンド)やハーレム編(悪魔と神様大集合)といったイタ(インターバル)回が出てきたのだと思います。
神のみぞ知るセカイ』 6巻 p157

懸念されるのはハーレム系にシフトすることで女性からの支持が下がるかも?という所ですが、
攻略回とハーレム回の割合を調整することで回避できるかもしれません。この辺りはアンケート次第でしょうか。


c-2)漫画では斬新、ゲームでは一般的
二つ目の問題点を述べる前に。
『神セカ』が画期的かを述べましたが、必ずしも独創的な発想な訳ではありません。
ブコメではありませんが、漫画『ひぐらしのなく頃に』は似たような状況を繰り返しつつ少しずつ違ったストーリーになるという演出でした。
ひぐらし』はご存知のように、同人のADVゲームがオリジナルです。
ゲーム自体をプレイしていないので聞きかじりですが、あのゲームが素晴らしいのは本来フラグ管理をして一つのゲームに纏めるところを
あえてルートごとに分割して製作し、後のルートになるにつれ少しずつ真相が解明されるという演出でした。


つまり、『神セカ』の直列形式はギャルゲーなどのADVゲームをルート決めウチで攻略し、
エンディングになったら最初からゲームを初めて別のルートを攻略するといったプレイスタイルを漫画に移植したものと言えます。
なので『神セカ』は必ずしも独創的だと言えないかもしれませんが、少なくとも画期的な発想だと個人的には思います。
例えば進化論は社会のありようを大きく変えるほどの画期的な理論でしたが、この発想は経済学からの移植です。

自然淘汰の理論は、自然の均衡と秩序はより高次の外からの(神からの)統制や、直接全体に働きかけるような法則の存在によって生じたものではなく、自分自身の利益を求める個人間の闘争から生じたものであるというアタム・スミスの基本的な合理主義的経済論を生物学へと創造的に移し変えたものである。」
ティーヴン・ジェイ・グールド『パンダの親指―進化論再考』

パンダの親指〈上〉―進化論再考 (ハヤカワ文庫NF)

パンダの親指〈上〉―進化論再考 (ハヤカワ文庫NF)


d-1)恋愛に変わる目的
直列の二つ目の問題点というよりも、工夫が必要になる点ですが、基本的なラブコメの「女性と付き合いたい」という目的が使えなくなります。
上の現視研の記事の引用では「主人公がそれを繰り返していくこと自体に目的」とありますが、自分の言語感覚ではこれは目的ではなく手段です。
何のためにそれを繰り返すのか?という別の目的があり、それを達成するための手段だと考えるからです。
これが仮に普通のラブコメ同様、「女性と付き合いたい」という目的ならば、#1で高原歩美を攻略した直後にこの漫画は終わります。
神のみぞ知るセカイ』 1巻 p60

頑張れば攻略できると分かったのですから、記憶が無くなって元の木阿弥になっても、もう一度歩美を攻略すれば済む話です。
ゆえに恋愛を直列にし、かつその恋愛をリセットするという手法なら、恋愛以外に何かしらの目的を作る必要が出てきます。


d-2)表向きの目的
『神セカ』において、恋愛を重ねることは駆け魂を捕らえる為の手段です。
なので最終目的は全ての駆け魂を捕らえて駆け魂狩りから開放されることとなります。今のところ。
まぁ開放されて本来の生活に戻るというのは最終目的のままかもしれませんが。
しかし、これだけだとベクトルとしては弱いです。
例えば『トガリ』なら108の咎(とが)を集める、『ドラゴンボール』の初期ならドラゴンボールを7つ集める、という明確な数字がありました。
『神セカ』の場合は駆け魂が残り6万というべらぼうな設定にしましたし、桂馬以外にも駆け魂狩りをしてるバディーがいる以上、
どこまで進展したかというのを表現する必要がありますが、駆け魂の数はあくまで他のバディーに対して優秀だというのを表すだけで、
全体の進捗状況を示す構成にはしていません。


e-1)現実へのリハビリ
ようやく本題です。(前フリ長すぎ)
ここまでは割と客観的に書いてますが、以下はかなり主観的です。その点を踏まえてお読みください。


で、恋愛が手段であり、駆け魂狩りが表向きの目的だとすると、別の目的があるということになります。
あくまで個人的な考えですが、それは「現実(リアル)はクソゲーだ!」と看破していた桂馬がリアルの世界を受け入れることだと考えます。
神のみぞ知るセカイ』 1巻 p17


「現実はクソゲーだ!」と桂馬が考えているのは、攻略対象の記憶が消えることと同様、『神セカ』に必須の設定です。
この設定があるからこそ桂馬が現実との関わりを避けるべく、攻略したらゲームの世界に戻り、恋愛を繰り返すことができます。
ただ、これを単に繰り返すだけならベクトルにはなりません。
現実を少しずつ受け入れるような描写にすれば、桂馬の人間的な成長を表現できることになります。
その一端が垣間見えたのがちひろ編の最後でした。
神のみぞ知るセカイ』 3巻 p108-110 若木民喜



まだ現実に対する問いの段階ですが、これは現実を受け入れる第一歩だと受け取れます。


また、5巻の表紙を「桂馬がゲーム(2D)の世界から現実(3D)の世界へと踏み出したことを表現したもの」
的な考察をしてる方がいらしたようです。中々興味深いと思います。

神のみぞ知るセカイ 5 (少年サンデーコミックス)

神のみぞ知るセカイ 5 (少年サンデーコミックス)

このゲームの世界が全てだった桂馬が現実の世界を受け入れる過程(ベクトル)を、私は「現実へのリハビリ」と呼んでいます。
現実を受け入れるというのは桂馬の目的ではありませんが、作品としての目的はここにあると私は考えます。
一般的なラブコメのように「好きな人がいる」状態から「付き合う」状態へのベクトルいかに引っ張るか
という方法が使えないので、代わりに
「ギャルゲーに浸ってる」状態から「現実を生きる」状態へのベクトルで引っ張る構造ではないかと。
故に、この漫画のコンセプトを
ギャルゲーマーが女性にカウンセリングするのをを通じて現実へのリハビリをする漫画』
と表現しました。


e-2)『電車男』における「現実へのリハビリ」
そもそも近代小説の祖と言われる『ドン・キホーテ(Don Quixote)』は妄想を現実と勘違いしたオッサンの話ですので、
それを少し発展させた、「現実へのリハビリ」を描いた作品は当然ながらあります。
現代において代表的な作品は『電車男』でしょう。
作家の本田透先生は『電車男』に対してこう批判しています。

負け犬にとって「オタクとくっつくしかない」という結論は出ているものの、オタクはやっぱりキモくて耐えられない、という女も多いことだろう。特に30代過ぎは、ちょうど「オタク=変態=敗北者」という刷り込みが一番強烈だった世代なので。そこで、さらにさらに巧妙な罠が考案されたのだ。


それが…それが「秋葉原 恋の脱オタストーリー」だっ!
電波男』p193-194 本田透


電車男」が真実の話なのか、捏造なのかはどうでもいい。俺が問題にしたいのは、「脱オタ=恋愛=幸福」という反オタクムーブメントがメディアで展開されていることそのものなのだ。
p204


オタクと恋愛資本主義とは、絶対に相容れない。いわば、水と油、陰と陽、北斗と南斗。両者はまったく別の世界であり、同じ空間での共存共栄は不可能だ。だから心優しいオタクは秋葉原という聖地を作り、大人しく平和に生きていく道を選んだのだ。


にも関わらず、恋愛資本主義は、その秋葉原までをも奪い取ろうとしているのだ。「電車男」というオルグ文章において。
p211

電波男 (講談社文庫)

電波男 (講談社文庫)

電波男』については以前レビューしてますので、もの凄く暇のある方はそちらもどうぞ。


若木先生も同様の批判をしています。

前に『電車男』ってありましたけど、オタクが世の中に許してもらう存在として描かれていたのが、ちょっと違うなって思っているんです。なんでオタク趣味を泣きながら告白しなきゃ駄目なのか、いつまでオタクは許してもらう立場なのかと。
だから、桂馬は「僕は変わる気はないよ。逆にこっちが評価してやる」って言っている。世間からすると「最底辺から見下ろしている」という子なんです。
現代視覚研究Vol.3 p78


e-3)「無視」「排除」「包摂」の時代を経て「容認」へ
詳しくは『電波男』のレビューで書きましたが、新しいムーヴメントが興ると、社会は4段階の対応をします。
影響力が全くない場合には、「無視」され、無視できないほど影響力が育った場合には、「排除」が働きます。
「排除」しきれなくなると一部を取り込む「包摂」へ、「包摂」した部分が全体化すると「容認」されます。


例えばロック。今では考えられないことですが、ロックが反社会的だと叩かれてた時代もありました。
オタクも当初は存在しないものとして扱われていました(そもそもオタクを表す言葉さえありませんでした)。
そこから「排除」される存在へと変化し、『電車男』では「包摂」される存在として扱われました。
今のところオタクの存在は「排除」と「包摂」の中間といったところでしょうが、いずれ「容認」される存在になるでしょう。
それがいつの時代かは分かりませんけども。


『神セカ』はその「オタクが容認される時代」を描いた作品とも言えるのではないか?と考えています。
今のところ、最もそれをストレートに表現したのはこのコマでしょう。
神のみぞ知るセカイ』 4巻 p123

神様がもっと現実(リアル)に近づいてくれたら、そう思ってたけど…
私の方から神様に近づいたら… どうなるのかな…

正に「桂馬がゲーム好きなのを容認する」描写だと思いませんか?


先に引用した『電波男』も、この状態を理想として掲げています。

だが、エルメスをオタクの世界に引きずり込んでこそ、オタクとしての勝利なのであり、今までのオタクとしての人生を肯定することができるのだ。エルメスティーカップなど叩き割り、『月詠』のマグカップでお茶会を開催してこそ、オタクのアベック、オタク同士のカップル!

なぜ電車男は、エルメスをオタクにしようとしないのか? 俺だったら、絶対にコスプレさせるYO! まずはメイドさんのコスをさせて、部屋をお掃除してもらうYO! オタクたるもの、みんな本当はそうしたいはずだ! それでこそ、二次元の妄想を三次元に逆輸入してこそ、二次元の勝利であり、オタクとしての幸福なのではないのか。
電波男』p212


ちょっと悲しい話だが、たいていの人間は勝ち馬に乗りたがるもの。それが三次元の世の常だ。故に、そのうち、負け犬のほうから勝手にオタク化しはじめる。というか、よく考えていただきたい。何も負け犬を掴まなくても、若い女の子はすでにどんどんオタク化してますやん!
(中略)
それでもなお、くらたま酒井順子を信奉し、オタク化をあくまでも拒絶する強硬派の負け犬女は、五稜郭まで追い込んでしまえ!それはそれで天晴れな武士道!


オタクの夜明けは、近いぜよ!


さあ、今こそみんなで、エルメスティーカップを叩き割れっ!

p215-216

オタクの世界に引きこもらず、現実を生きつつオタクの世界を捨てない
私はこれが当たり前であるべきだと考えます。
趣味がバンドの人間が普段生活するためにギターを投げ捨てる必要はありますか?
オタクだけが投げ捨てなければならない理由はどこにも無いはずです。


e-4)理想へのリハビリ
桂馬はカウンセリングを通じて現実を容認する方向へと向かいます。
では、カウンセリングされる攻略キャラは?


そう、カウンセリングを通じて理想へのリハビリをしているのです。
神のみぞ知るセカイ』 5巻 p88

この漫画は『ギャルゲーマーが女性にカウンセリングするのをを通じて現実へのリハビリをする漫画』
だと書きましたが、その根底にあるのは「現実と理想の融合」だと言えるのではないでしょうか。