電波男 本田透
- 作者: 本田透
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2008/06/13
- メディア: 文庫
- 購入: 5人 クリック: 132回
- この商品を含むブログ (62件) を見る
簡単に言うと、妄想で論理を構築していく芸風。絶望先生的に言えば「足し算の論理」「妄想アール・ヌーボー」です。
(原作#85,アニメ2期2話Bパート『ティファニーで装飾を』の「足し算の美学」「ご近所アール・ヌーボー」)
故に突っ込みどころや批判したくなる箇所はいくつか出てくるでしょうが、その前にこの妄想によって彩られた理論と、その中に一筋の真実の光を見出すのが正しい読み方だと思います。
まずは『負け犬の遠吠え』に批判を浴びせます。
この本の内容は
「30歳独身女は、男と結婚できなかった。従って、負け犬だ。しかし、30代の独身男は、まともな男じゃない。例えばオタクだったりする。男がダメだから私たちが結婚できないのだ!」
な、なんだってーー!(AA略)
俺たちオタクのせいで、女が結婚できない、だって?
ちょっと待て!逆だろ、逆!お前ら女が、オタクを見るとドン引きするから、オタクがモテないんじゃないかYO!いったいいつ、俺たちが女をソデにしたりフったりしたんだYO!そもそも女に近寄らせてもらうことすら許されないのに、ふざけるな!
そうか…わかったぞ。30代独身女…負け犬にとって、オタクは男じゃないのだ!
(中略)
そう、女は、基準に合格しない男を次々と振り落としていく。そして、その基準に合格できる男とは…イケメンか、あるいは、金持ちなのだ!
p21-22
実際のところ、本田氏も女をフった事があると書いてますし、(正確には彼女ができそうだった状態から縁を切った、ですが。p199-200)これは女性だけに当てはまるのではなく、男性にも当てはまると思いますがね。
ここから、恋愛資本主義の解説、批判をします。
ここでの批判のミソは、恋愛資本主義は批判しても恋愛至上主義は批判しないところ。
対象が三次元の世界から二次元のセカイになった恋愛至上主義がこの本で言うところのオタクなのですから。
恋愛資本主義は、恋愛そのものを商品化することにより、恋愛行動によって大量の消費を行わせるシステムである。そして、そこでは「モテない男→女→イケメン」というふうに金が流れていく。この「あかほりシステム」は、多くの女性ファッション誌や男性ファッション誌、テレビのトレンディ・ドラマ、スポットCMなどの多くのメディアによって成立しているが、俺は虎の尾を踏む覚悟で、これをあえてマスメディア&大手広告代理店(電通)の支配するシステムだと宣言してしまおう。人々は80年代からこのかた、このシステムに踊らされ続けてきた。
ところがオタクは、この恋愛資本主義とまったく異なる経済構造を作り上げた。
そう、恋愛資本主義が「あかほりシステム」だとすれば、オタク市場は「ほんだシステム」なのである。ほんだシステムとは、何か?
図のように、オタクは金をほんだシステムの内部で永久循環させることができる。永久に沸いてくる動力の源となっているのは、「萌え」心だ。オタクは、萌え心によって自家発電する能力を持っている。
萌えキャラでオナニーできるという意味も含めて「自家発電」だ!
p102-103
永久機関が存在しないのと同様、この「ほんだシステム」も実際には成立しません。
稼いだ金は生活費にも使われるという事を無視したとしても、このシステムは時間軸を無視しています。
受け手が減少する現象...いわゆる少子化により「ほんだシステム」は確実に破綻への道を進んでいます。
日本のアニメバブル崩壊 DVD不振、新番組も減(痛いニュース)
そして、恋愛資本主義からの脱却をするために、「脳内恋愛」を提唱する。
最近は人間とは関係ないものにも萌える人が増えているのだが(モビルスーツのカトキ立ちとか)、人外萌えを含めて、それはすべて「脳内恋愛」なのだ。
もともと、デカルトが「我思う故に我あり」と言い放ったことからも分かるように、人間の暮らす世界とは、肉体(現実世界)と心(空想世界)の二種類があると考えられてきた。
ソクラテス・プラトン以来の伝統として大昔の西洋人哲学者の多くは、現実世界よりも空想世界を、つまり三次元よりも二次元を価値のある世界だと考えていた。いわゆるイデア論というやつだ。
古代ギリシア哲学からして二次元主義だったのだが、キリスト教ではさらにこれが(ちょっと行きすぎな感じで)極端になり、三次元世界における肉欲は悪徳とされるにいたった。この二次元至上主義が、ロマンティック・ラヴを生み出し、恋愛という概念を発展させていったのだった。
つまり、元々恋愛は、二次元のものだった!
デカルトだって、「我思う故に我あり」と主張したのは、要は「精神があるからこそ、二次元世界に生きているからこそ、私は人間なのだ」ということなのだ。な、なんだってー。
二次元あってこその人間、二次元なくして人間は存在しえず、二次元なくしては人間は動物と同じレベルになってしまう!だからこそ人間は、物語や絵画・彫刻といった空想の産物を求め、作り続けたのだ。二次元の妄想を小説や絵画、音楽といった形にすることができる人間は、「芸術家」として尊敬されたのだ。妄想する力こそが、人間を人間たらしめ、幸福に導く……!このような「オタクの主張」は、かつてはごく常識的な主張に過ぎなかったのだ。
しかし、資本主義の発展とキリスト教の衰退により、二次元よりも三次元、精神よりも金が重要となったために、しつこいようだが恋愛は三次元の物質欲・金銭欲と結びついて「恋愛資本主義」に組み込まれて、変質していったのだ。
これに対して、オタク界は、根っからの二次元至上主義だ。つまり、オタクはプラトン派の末裔だといえる。よくプラトニック・ラブっていうでしょ。あれって「精神的な愛」って意味だから、日本語に訳したら「萌え」だよね。
p115-116
「偏ってるけどあながち間違ってもいない」本田節炸裂。さすが早稲田の哲学科行ってただけのことはあります。
この辺りの記述に興味を持った方は下の本を薦めます。
萌えの視点から哲学史を語るこの本、個人的な評価では本田透先生の著作の中でピカイチ。
- 作者: 本田透
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/12/20
- メディア: 単行本
- 購入: 5人 クリック: 148回
- この商品を含むブログ (101件) を見る
amazonの中古でさえ5,800円するので(一時期4万円の値が付いてた事を考えると安くはなりましたが)図書館で借りた方がいいでしょう。
- 作者: ジョナサンローチ,Jonathan Rauch,飯坂良明
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1996/09
- メディア: 単行本
- クリック: 59回
- この商品を含むブログ (22件) を見る
「脳内恋愛」の説明をした後、その世界で平和に生きているオタクへの攻撃を批判する。
「オタク=キモメン=性犯罪者予備軍」というオタクのマイナスイメージを決定付けたのは1989年の「宮崎勤事件」だが、「オタク芸能人」としての宅八郎の登場もまた、現代に及ぶ「キモメン」としてのオタクのイメージの形成に大きな影響を与えた。宅八郎先生は、「ロンゲ・眼鏡・マジックハンド・フィギュア持参」という男らしい姿でテレビにドーンと現れ、オタクという言葉を聞いたこともなかったお茶の間のおばちゃんたちを震撼せしめたのだ。
p180
マスメディアは、宮崎勤事件以来、オタクを過剰に攻撃し、オタク=悪と断罪し続けてきた。いや、もともとオタクを攻撃したかったから、宮崎勤事件を無理やり「オタクのオタク性によるオタク犯罪の発露」という話にしてしまったのだ。しかし宮崎勤事件の本質は「オタク」ということにはない。オタクはすべて、幼女を誘拐して殺害したいと潜在的に考えているのだろうか。
否! 否! 断じて、否! むしろ萌えを極めれば極めるほど、妄想力を高めれば高めるほど、二次元に没入していき、三次元はどうでもよくなるのだ。
p183-184
前にも書きましたが、新しいムーヴメントが興ると、社会は4段階の対応をします。
影響力が全くない場合には、「無視」されます。
これが無視できないほど影響力が育った場合には、「排除」が働きます。
今では夏の高校野球を主催している朝日新聞が、大正時代の記事に早慶戦で判定を巡る乱闘が頻発していたのを「青少年の健全な育成を阻む」と批判していたことさえあります。(パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』ちくま文庫)
フォークソングやロックが反社会的だと叩かれてた時代もありました。パンクやデスメタル、猟奇映画も然り。
1980〜90年代はオタクにとってまさに「排除」の時代でした。
そして排除できないほど影響力が大きくなると、「包摂」へと向かいます。
この「包摂」には2段階あります。(包摂のwiki参照)
有用なものは取り込んで、有害なものは排除しようとする段階のことを、形式的包摂formal subsumptionと呼びますが、ここでは単に「包摂」と呼ぶことにします。
この有用/有害の垣根が取り払われた段階のことを、実質的包摂real subsumptionと呼びますが、ここでは「容認」と呼ぶことにします。
2000年代に入って、オタクも「包摂」の時代に入ります。
『電車男』はまさにオタクを包摂しようという動きの象徴です。
負け犬にとって「オタクとくっつくしかない」という結論は出ているものの、オタクはやっぱりキモくて耐えられない、という女も多いことだろう。特に30代過ぎは、ちょうど「オタク=変態=敗北者」という刷り込みが一番強烈だった世代なので。そこで、さらにさらに巧妙な罠が考案されたのだ。
それが…それが「秋葉原 恋の脱オタストーリー」だっ!
p193-194
「電車男」が真実の話なのか、捏造なのかはどうでもいい。俺が問題にしたいのは、「脱オタ=恋愛=幸福」という反オタクムーブメントがメディアで展開されていることそのものなのだ。
p204
オタクと恋愛資本主義とは、絶対に相容れない。いわば、水と油、陰と陽、北斗と南斗。両者はまったく別の世界であり、同じ空間での共存共栄は不可能だ。だから心優しいオタクは秋葉原という聖地を作り、大人しく平和に生きていく道を選んだのだ。
にも関わらず、恋愛資本主義は、その秋葉原までをも奪い取ろうとしているのだ。「電車男」というオルグ文章において。
(中略)
だが、エルメスをオタクの世界に引きずり込んでこそ、オタクとしての勝利なのであり、今までのオタクとしての人生を肯定することができるのだ。エルメスのティーカップなど叩き割り、『月詠』のマグカップでお茶会を開催してこそ、オタクのアベック、オタク同士のカップル!
なぜ電車男は、エルメスをオタクにしようとしないのか? 俺だったら、絶対にコスプレさせるYO! まずはメイドさんのコスをさせて、部屋をお掃除してもらうYO! オタクたるもの、みんな本当はそうしたいはずだ! それでこそ、二次元の妄想を三次元に逆輸入してこそ、二次元の勝利であり、オタクとしての幸福なのではないのか。
p211-212
ちょっと悲しい話だが、たいていの人間は勝ち馬に乗りたがるもの。それが三次元の世の常だ。故に、そのうち、負け犬のほうから勝手にオタク化しはじめる。というか、よく考えていただきたい。何も負け犬を掴まなくても、若い女の子はすでにどんどんオタク化してますやん!
(中略)
それでもなお、くらたまや酒井順子を信奉し、オタク化をあくまでも拒絶する強硬派の負け犬女は、五稜郭まで追い込んでしまえ!それはそれで天晴れな武士道!
オタクの夜明けは、近いぜよ!
さあ、今こそみんなで、エルメスのティーカップを叩き割れっ!
p215-216
オタクのなかでも有用なものは取り込み(=脱オタさせる)、有用でないものは排除する(オタクとして排除したままの存在にしておく)。
まさに包摂の論理です。
本田先生はこの動きに反発し、非オタ(負け犬?)のなかでも有用なものを取り込んで(オタ化させる)こそオタクの幸福だと説きます。
ネタにマジレスするようで批判しにくいですが、個人的には「容認」の時代が来ると思っているので、必ずしも女性をオタ化させる必要はないと思います。
要は「オタク=変態=敗北者」というレッテルが剥がれれば済む話ですから。
麻生首相がジャパニメーションを賞賛しているように、レッテルが剥がれる流れは確実に来るでしょう。
まぁ何年先にそういう時代になるかという問題はありますが。
この後は萌えの未来等について書いてますが、引用したくなるような箇所はあまりないので省略。
いかに萌えがDQN化を防いでいるか、という点だけで十分でしょう。
エロ漫画やエロゲーに鬼畜系があることを考えると、この図にそのルートを書き入れる必要があるとは思いますけどねw
あとがきの本田透先生自身の体験談は悲惨で泣けてきます。
この文章を読むと「それでもオリを受け入れてくれる人募集」と言ってるようにも思えるのですが...